人類最速を目指してアメリカに行った話

自宅のテレビのHDDに残っていたテレビ番組の録画を久しぶりに見て当時を思い出したので、それについて書いてみようと思います。当時は書けなかったことも。

初めに僕のところに話がきたのは2015年の年末だったと思う。当時所属していたチームのGMに「大事な話がある」と会社に呼びだされました。何事かとドキドキしながら話を聞くと、NHK名古屋支局から番組出演のオファーが来ているので受けてくれないかということでした。

番組名は「超絶!凄ワザ」日本の技術力を紹介する番組で、様々な企業や技術者がいろんな課題に挑戦する番組です。今回、何をやるのかといえば、毎年アメリカで9月に行われているWorld Human Powered Speed Challenge「人力最速チャレンジ」なる大会に日本から参戦すること。

この大会の開催場所はNevada (ネバダ)州のBattle Mountain(バトルマウンテン)という町。すごい名前。まさに決戦の地。

バトルマウンテンの町の外れに世界で一番長い平坦の直線路があって、そこが舞台になります。

大会の開催期間は1週間。毎日朝と夕方に計測するチャンスがあります。出走順は、1回目はくじ引き、以降はそれまでの成績順で自由に走行時間を選べます。約8kmの直線路を使って、最初は助走区間。最後の200mの平均スピードが記録になります。なるべく公平を期すために、ちゃんと規定された風速以下でないと記録は認められませんが、人力の乗り物であれば2輪である必要はなく、3輪でもOK。今は2人乗りの部もあるらしいです。


我らが日本チームは、設計はモーターサイクルで有名なヤマハからイケガミさん、空力関係はモータースポーツ界では有名な東レカーボンマジック(童夢といえばモータースポーツ好きの人ならピンとくるかもしれませんね)からセキさん。(この2人とカーボンマジックからきたメカの人が凄かった。)実際に車体を製造するのは、車体に使うカーボンの部品は東レカーボンマジックさんが行って、イケガミさんもいろいろな部品を用意。本当に彼らの合作といった感じでした。



9月の本番に向けて、春に1号機を作って、いろいろテスト。その後に本番用の自転車を作るという手順だったのだけれど、1台目と2台目は大きく異なっていて、実質ゼロからなんじゃないかなという設計でした。

1号機はこんな感じ


上下に分割して乗り込むタイプで、シールド越しに肉眼で前を見ます。


しかし本番用の2号機では、空気抵抗を減らすためになるべく小さく作りたいので、人間1人がギリギリ入れる寸法の車体で、クランク長も150mmくらいだったかな?BBの幅もオリジナルで作って極限まで踏み幅を狭く。丸い車体から出ているのは外を映すカメラと2本のタイヤのみ。タイヤが出ているボディの穴もなるべく小さい方がいいので、タイヤが動く余地はほとんどなくてハンドルは2.5度しか切れない。普通の自転車のようにバランスを取るためにハンドルを切ってコントロールするのが至難の技で、体は車体の中にすっぽり入るので手や足は地面に付けない。ギヤは5段変速が付いているものの、スピードを出すために最初からかなり重たいギヤが付いている。外を見るためのシールドのつなぎ目は空気抵抗になるので、モノコックカーボンで作ってカメラを設置。それを車内に設置したモニターで見ながら走る。まるで車のレースゲームの画面のような感じです。

なのでスタートがかなり難しい。そして車内は密閉空間で、止まると息苦しい。走るとタイヤの隙間から少し空気が入ってきて楽になります笑

BBやクランクも自作。ギヤがかなり大きいですが、それでもギヤ比が足りないので、もう1回加速させています。チェーンリング→スプロケット→もう1回チェーンリング→もう1回スプロケット(フリーボディ)という感じ。

僕が入るところ。真ん中の縦の柱の奥に前輪があり、それを股で挟むような形で乗り込みます。かなり狭いです。


その上、制作時間の都合上1日しか日本国内で練習する時間がなかった。乗れる場所も限られているし。ツインリンクもてぎのオーバルコースか自動車の研究施設でしか走れない。

1日のテストのうち、午前中は一度も成功せずに終わった。午後になりなんとか乗れるようになったものの、一回70km/hくらいで転んでしまった。すごいのは転んだ場合に地面との摩擦熱で火傷しないように、きちんとボディのカーボンの間に熱を伝えない素材が挟んであって、無傷。外が見えない真っ暗な中でぐるぐる吹っ飛んだのは面白い体験でした。

他にも走っていたら高速で稼働するパーツの風圧のせいでパーツ同士が擦れてカーボンが焼ける焦げ臭い匂いが漂ってきたり、カメラがきちんと接続されていなくて走っている途中で外が見えなくなったり(これは本当にヤバかった。前が一切見えなくなりますから。。。)と色々トラブルが出つつ、アメリカに渡りました。



本番の場所はNevada (ネバダ)州のBattle Mountain(バトルマウンテン)という町。すごい名前。まさに決戦の地。現地に到着してもとりあえずスタートの練習。

スタートは各自の決められた数分の時間内なら何度でも再チャレンジできるものの、一度失敗すると車体に傷がついて空気抵抗がかなり増えてしまう。それだけで時速にして数km/hは違いが出るので、なるべく失敗はしたくない。本番の1週間。毎回1度はスタートに失敗してしまったのだけれど、毎回メカさんが僕がつけてしまった車体の傷を時間をかけて夜遅くまで修復してくれるのが申し訳なかった。結局、最後まで一発でスタートできることはなかったのが悔やまれる。

止まるときにも自力では立ち止まれないので、ゴールの先にスタッフに待ち構えてもらって自転車をキャッチしてもらうのだけれど、外を見ているのはカメラ越しにモニターで見ているので、距離感が分からずこれも難しい。

ブレーキは後輪にしかついていないのだけれど、急ブレーキでタイヤをロックさせてしまって接地面にフラットポイントを作るとそれも抵抗になって最高速度が落ちてしまう。結構シビアな戦いをしていました。

大会期間は1週間あるものの、天候によっては安全上の理由から計測できないこともあるので、チャンスは限られていた。ほぼぶっつけ本番だったので試行錯誤しながらチャレンジした。走行するたびに記録は伸びていって、最終日に出した132km/hが我々日本チームの記録。初挑戦で2位の記録なので、まずまずだったと思います。日本人としては当然1位。なぜ当然かといえば日本人が今までに挑戦したことはないから笑

当時の走行データも公開しておきます。


標高1375mで気温は24°C。計測はSRM。

データを見てみると、走行時間は約6分で全体の平均パワーは330Wくらい。

スタートではバランスを取るために150Wattくらいでゆっくり走り出して加速していくと共にパワーも上げていく感じで、最後の1分半は450Wくらい。平均心拍160bpmで平均速度は92km/h。ケイデンスが低くて80回転くらい。

グラフを見て面白いなと思ったのは、速度を記録しているGPSの誤差もあるかもしれませんが、パワーと速度の上がり方がズレていること。どんどん加速している状態では、最後にバテてパワーが落ちてもスピードは上がり続けています。逆にゴールギリギリでスパートしても速度に反映される前にゴールしてしまう感じ。

ギヤが5速しかなくかなりワイドレシオで1回の変速ショックも大きくてペース配分が難しい面もあります。なので、記録を出す走り方にはかなりコツがあると思います。

ケイデンスをあげるとバランスを崩すのでなるべく低く保っていました。全身固定されてレッグプレスを行うようなイメージでペダリング。全力は全力なのですが、時々風が吹いたりもする中バランスをとって真っ直ぐ走るのに半分くらいエネルギーを使っていました。思ったよりパワーが出ていなくて、足の重力や腕や全身の力が使えない状態ではこのパフォーマンスが限界でした。立ち漕ぎしない、同じポジションで全力ダッシュするといったリカンベント特有の乗り方でトレーニングを積めば、改善するとは思います。

なので、身長体重が僕と同じくらい(180cm,68kg)で同じサイズの車体に乗り込める人で、標高1375m/空気の循環が少なくて少し息苦しい/脚以外の身動きが取れない状態でモニター越しに外を見ながら走れる状態のリカンベントと色々制約はありますが、僕よりパワーが出せれば記録更新狙えます。そういう人、探せばいそうな気がするんですが。。。

そんな人がいればぜひチャレンジしてほしいです。今なら、僕の記録を抜けば日本記録って言えますし笑

この大会は、ほとんどの参加者が大学の研究チームで、他のプロスポーツのようにギスギスした雰囲気はあまりなく、お互いに良い記録を目指すために協力して戦っている雰囲気がありました。

他チームのトラブルにも、協力できる範囲で協力するみたいな。

僕も、時速140km越えを達成したカナダのトッドさんから走り方のアドバイスももらいました。

このチャレンジ。当時の現場の空気感としては、やればやるほどもっともっと記録は伸びると思っていました。そもそも、車体製作はほぼぶっつけ本番で、自転車は作る段階でポジションをある程度決めたら座面からペダルまでの距離などは一切調整できない仕様で、なるべく小さく作りたい考えと、僕がうまくペダルを回せないといけない車内空間を確保しないといけない部分があったので、若干の設計上の余裕があったと思います。作り直す時間はなかったので、最後の寸法を決めるセキさんは少し余裕を持って作ったんじゃないでしょうか。

イケガミさんセキさん、そしてカーボンマジックのメカさんが揃ったからこそできたことでした。僕は途中少しだけ意見しましたが、みんなが苦労して作った良い車体に乗らせてもらって走っただけという。。。テレビの企画でしたが、NHKのディレクターさんを含め全員で本気で走りましたし。ディレクターさんの最後の涙が忘れられません。

そして、最後に残念だったのは、この大会の後、僕は次の本業の方のレースがあるのですぐに帰国した(させられた?)でした笑 みんなはもう1日自由時間があってアメリカ観光を楽しんだようで。。。


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